孤独か、それに等しいもの

イヌヒ

2011年01月06日 05:48

ここ半年から一年にかけて、自らの価値観や意識について、色々と考えさせられる事が多い。

一番大きかったのは、「AD/HD」(注意欠陥・多動性障害)の可能性がある、ということ。
今の仕事をしながら、自分の出来なさを嘆き、反省するも上手くいかず、また同じことを繰り返す。
普通の社会人として、当たり前に出来る事が出来ない、という事実を目の当たりにする。
ひょんな事から、「AD/HD」の可能性について触れる機会があり、専門の人と話をしていって。
そう診断された訳ではないけれども、グレーゾーンにいる自分、という認識を得まして。

基本的な考え方が逆転しました。
私自身、少しくらいは「デキる」と思う節を持っていたのだが(←これも今となっては、ちゃんちゃら可笑しい話だが)、「私は何も出来ない。けど、それでも、何が出来る?」という、矛盾したようなところから始めるようになった。
常に自分の限界を感じつつ、出来る事を積み重ねていく。(←今ここ)
「今日」という違った毎日に、「自分」という軸を少しでも据えていければと。


色恋沙汰についても、少しは変わらなければ、と言われるし、思ってもいるのですが。
自分の気持ちは持っているのだけれども、そこに正直に行動できないで、もう何年?
凝り固まった思考に囚われすぎて、殻を割れずにここまできている。
否、殻を意図的に割ってないのよ。割って出た時に、未熟が故に弱りたくないから。
(『風の谷のナウシカ』の巨神兵のごとく)。
でも実は、殻なんてすでに割れてて、恥ずかしい姿をさらけ出しているのに気付いてないだけか?
(・・・と、「だけ、何なん?」という感じで延々と続く。)

私の凝り固まった思考・・・「人間は、間柄的存在である。」ってやつ。
和辻哲郎、というおっちゃんのお言葉。
人は常に、その相手(他人)に対して、「自分が何であるか?」によって自分をあらわしている。
「子ども」に対しての「父親」であり、「妻」に対しての「夫」である。「彼氏」「彼女」だってそう。
何らかの人間関係の全体において、人は人として存在する。そしてその人間関係もまた、人がそれぞれ「個人」として存在することで、そこに生まれるものである。
なんて解釈をしているのですよ。
そうすると、「自分」という軸だけではなくて、どうしても「関係」という軸でも捉えてしまう事になり。
弁証法的やり取りの結果、大概「お友達」に落ち着いてしまいます。

私をよく知る友人が、年末言ってました。
「あんたの丸い刃じゃ、相手には絶対刺さらんけんな!」
私もよく分かっているのですが、分かっているのですが・・・。
(そして今日も、大失態を犯してしまい、今に至る。)

今年も、あと360日。
どう転がるやら。どう転がすやら。

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